「該当外」患者のケアこれから
患者のがん組織の遺伝子を調べて患者ごとに適した薬を選ぶ個別化治療が進んできた。特にがんだけを狙い撃ちする分子標的薬と呼ばれる抗がん剤の標的部分のタイプが患者によって異なるケースで効果を上げている。薬が効きにくい患者に使わないことで副作用を軽減し、不必要な治療費も減らせるが、遺伝子検査で「薬が合わない」結果に不安を持つ患者のケアなど新たな懸念も浮上している。
「イレッサが効くタイプとわかってほっとした」。埼玉県に住む会社員の男性(54)はこう振り返る。昨年8月に受けた人間ドックで肺に水がたまっていることがわかり、精密検査を受けた結果、肺がんと診断された。主治医に勧められ、がん細胞の遺伝子検査を受け、イレッサが効く、EGFRというたんぱく質をつくる遺伝子に変化があるタイプとわかった。
9月から服用し始め、10月からは仕事にも復帰。副作用は口内炎程度でほとんど気にならないという。定期的な検査では今のところ転移もなく、肺がん自体も小康状態を保っている。
イレッサは、肺がんのがん細胞の表面にあるEGFRだけにくっつく分子標的薬のひとつで、EGFRのがんを増殖させる働きを抑える。肺がん患者の中で、EGFRをつくる遺伝子が少し変化し、より強力にがん細胞を増やすタイプに、イレッサは効果が高い。日本人では肺がんの8割を占める非小細胞肺がんの約30%が該当する。
学会が指針改定
日本肺癌(がん)学会は2010年秋に、進行して手術が難しい肺がん患者では、遺伝子検査をしてEGFRに変化がある場合にイレッサを初期の治療から使うことを推奨するよう治療指針を改定。現在、切除できないまたは再発した非小細胞肺がん患者の8割が遺伝子検査を受けていると推定している。
一方で、イレッサは確率は低いが間質性肺炎などの重篤な副作用を引き起こすことも知られている。埼玉医科大の萩原弘一教授は「遺伝子検査で効きやすい患者を選んで投薬すれば、効きにくい人を副作用のリスクにさらさなくて済む」と話す。
「胃がんも患者に合わせて薬を選べる時代が来つつある」。胃がんの抗がん剤治療に詳しい国立がん研究センター東病院の大津敦・臨床開発センター長はこう指摘する。今年3月、これまで乳がんの治療薬として使われてきた分子標的薬ハーセプチンが、手術できない胃がんの治療にも使えるようになった。
標的はHER2というたんぱく質。胃がん細胞の検査でHER2の量を調べ、多い人に適用する。ハーセプチンを従来の抗がん剤に加えて使うと、従来薬だけの場合に比べて約3~4カ月ほど生存期間が長くなることが、日本も参加した国際的な治験で判明している。該当するのは患者の2割ほどと少ないが、「効かない薬を投与されずに済めば、患者の体力的、経済的な負担軽減になる」(大津センター長)。
このほか、大腸がんでも遺伝子検査をして効く患者を選ぶ分子標的薬が2種類使われ始めた。
抗がん剤は同じがんでも、効きやすい人と効きにくい人がいることは経験的に知られてきた。大津センター長は「かつては医師の経験や勘を頼りに薬を選んでいたが、遺伝子という武器を得て患者に適した個別化治療ができるようになりつつある」と話す。
ただ課題もある。そのひとつが、遺伝子検査で分子標的薬が適合しなかった場合の患者のケア不足だ。萩原教授は「肺がん治療で検査の結果イレッサが使えないとわかると、もう終わりだと思って落胆する人も少なくない」と話す。分子標的薬以外の従来の抗がん剤を使う治療は続けられるが、患者は自分にあった薬がなく、見捨てられたと勘違いしてしまう。
個別化医療の進展に詳しい医薬産業政策研究所の南雲明主任研究員は「まだがんの個別化医療は始まったばかり。遺伝子のタイプで選べる薬が少ないうちは、医師もほかの治療法があるということを十分説明するなどの配慮が必要。新たながん難民をつくりかねない」と指摘する。
情報管理も課題
長期的には、究極の個人情報である遺伝子情報の管理も課題だ。がんの遺伝子型はがん細胞に限られるとはいえ患者特有の情報。万が一、外部に漏洩した場合、結婚や保険加入などに不利になる可能性もゼロではない。先行して個別化医療を推進する米国では、すでに遺伝情報に基づく差別を禁ずる法律があるが、日本にはまだない。
国家戦略として本格的な個別化医療を推進する内閣官房医療イノベーション推進室の中村祐輔室長も「前提条件として遺伝情報の取り扱い、管理を含めた法体系の整備が必要」と指摘している。(西村絵、当广千晶)
製薬各社も注視 新薬開発を短縮
患者にとってメリットが大きいとされる個別化医療は「製薬各社にとっても新しい薬を開発する戦略上不可欠なものとなりつつある」(医薬政策研の南雲主任研究員)。開発段階からある薬剤に高い反応を示す患者を選べれば、治験が少人数で行えるほか、開発期間の短縮などが可能となり、開発の低リスク・低コスト化が図れるためだ。
医薬政策研によると、世界で個別化医療の需要は拡大し続け、特にがん分野の市場の伸びが大きく、2019年には2009年の4倍以上になるとの予測もあるという。
個別化治療普及のカギを握るのが、遺伝子検査の拡大だ。日本では大腸がんの発生にかかわるKRAS遺伝子検査、肺がんのEGFR遺伝子検査が相次いで保険適用となり、今後もこの傾向は続くと考えられる。検査で患者を絞るため不要な薬代を減らせるとの見方がある一方、費用対効果は慎重にみていく必要があるという意見も強い。
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【図・写真】肺がんの遺伝子検査をする埼玉医科大の研究室